「アインシュタイン博士」

 7/7の、NHKの番組「プロフェッショナル‐仕事の流儀」は、特殊メイクアップアーティストの江川悦子さんがゲストで、司会者で脳科学者の茂木健一郎さんが、江川さんの手により、特殊メイクで「アインシュタイン博士」に変身されていました。

 なんだろう。この、内面は茂木健一郎さんなのに、外見は「アインシュタイン博士」というギャップから起こる気持ちは。

 着ぐるみや、お面のようにも見えるし、コンピュータ・グラフィックスのようにも見えるし、本物のアインシュタイン博士がそこに立っているというような、妙な気持ちにもなります。

 そういえば、アインシュタイン博士が話しているところの映像はあんまり見たことがないかなあ。

 白黒の映像で、誰かと話し合いながら、散歩してるみたいに歩いている後ろすがたを見たり、移動している最中に、カメラの方に手を振って、そそくさと通り過ぎて、ほんとにちらっとアインシュタイン博士を見かけたというような映像や、静止画の写真でしか見たことがないから、もし、本当にアインシュタイン博士が生きてて、そこにいて、しゃべっていたら……とか思うと、なんだか不思議な気分になります。

 茂木健一郎さんもすごい人だし、アインシュタイン博士もすごい人だから、二重にすごいというか。なんか、イメージが合体してしまって、「え、ええ? あれ? この人誰だったっけ?」みたいな。ひとりの人に、二人分の情報が、二重に入っているというような。ふたりの人のイメージがまぜこぜになってしまって、アインシュタイン博士の姿の茂木健一郎さんがテキパキと日本語で説明するように話されていると、ちょっと混乱しました。でも面白かった。

 7/8の茂木健一郎さんのブログに、「アインシュタイン博士」の扮装をされたときの写真がUPされていました。ちゃんと、「アインシュタイン博士」が舌を出してる写真もありました。「アインシュタイン博士」が両手を広げて、お茶目なすがたで立っていたり、「アインシュタイン博士」があごに手を当て、かっこいいポーズをして写っていたりして、面白かった!

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ゲーム

 ニンテンドーDS(携帯ゲーム)の「キングダムハーツ 358/2(スリー ファイブ エイト デイズ オーバー ツー)」をクリア。うーん。よかった。なんか、空いていたジグソーパズルのピースがぱちぱちぱちとはまるみたいにして、抜けていた場面がぴったりと補完されて、一枚の大きな絵ができていくようでした。

 ああ、こういうことだったのか、とか、こういうわけがあったのか、と何年か後で納得できるゲームなんて、なかなかないよね。どのぐらい前から用意されていたストーリーなんだろう?

 シナリオもすごくよかった。でも、あれだけの物語をまとめあげて、そして次の完成されていた(つまり変更できない)ストーリーへ、矛盾なく繋げるのはとても大変だっただろうな。

 映像は、すごいインパクトがありました。カメラワークが秀逸で、続きものの映画を見たみたいでした。映像が一瞬たりとも止まってなくて、窓の外の黒いもやがゆっくりと動いてたり、表情が刻々と変わったりしていました。

 ゲームのおもな舞台となる『存在しない城』は、永遠に夜の中にある、大きな病院みたいでもあったし、未来の、巨大な白いミュージック・ホールのようでもありました。

 あと、「ピーターパン」の舞台「ネバーランド」を飛べたのは楽しかったなー。操作は少し難しかったですが。夜の「ネバーランド」の、満天の星空のもと、濃い群青色の海面すれすれを、白く波立てながら滑るように飛んでいくところは、なんか、ハワイの夜の海に行っているみたいな気分になりました。

 現実の南国の夜空と海の色も、こんな色合いでこういう風に見えるんだろうなという感じ。

 ゲームが進化していくと、ますます臨場感が上がっていくんだろうな。

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エヴァンゲリオン

 エヴァンゲリオン、映画版。テレビでやってたのを(映画版は)初めて見て、「あ、すごい忘れてる」と思いました。テレビアニメの映像はまあまあ、覚えてたけど、それを見た時の自分の感情を、ほとんど忘れてました。

 当時はシンジ君に感情移入してて、周りの大人たちが、14歳のシンジ君に、あまりにも理不尽にひどくつらく当たってるみたいに思えて同情してすごく憤慨していたけれど、なんとなく、ミサトさんの気持ちもわかるようになってきたかな。シンジ君も、繊細だけど結構芯は強い部分もニヒルでクールな部分もあるんだなと、以前よりは感情の距離を置いて見ていました。でも、やっぱりシンジ君は大変そうだなー。見てるとちょっとつらい。

 今回の映画でエヴァンゲリオンを初めて見る人は、どんな感想を抱くのかな? とも思いました。当時はすごい未来的な映像だと思っていたけど、今見ると公衆電話が並んでいたりして、どことなく、90年代のそのときの現在の雰囲気が、ばっと凝縮されたような景色でもありました。そういえばあのとき、こんな風な感じだったな、みたいな。90年代後半の日本が想像する、2014年の日本。

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 エヴァンゲリオンがテレビアニメでやっていた頃は、現在と未来の間に暗幕がかかっていたような気がします。ふたつの未来がどちらに進んで行くのか、それとも、第3、第4の未来が存在するのか、未来なんてあるのか。薄暗がりの中を手探りで進んで行くような不安感。

 その暗幕がぱっと取り払われたのはいつだったのか。暗幕が取り払われた目の前には、相変わらずの日常が広がっていた。日常は変わらないけど、日常への見方は変わってしまった。

 『平和』という言葉は、以前ほどの力強さや魅力を持たなくなってしまった。

 同時に、『戦争』すら、テレビゲームの中の戦闘の映像や出来事と置き換えられるほどに、それは妙に恐怖感を欠いた、コンピュータ・グラフィックスの映像的な、遠いものになってしまった。カオス(混沌)としての戦争ではなく、システムとしての戦争。異常を正す、あるいは排除するために、軍隊が現地へ派遣されるというような。そこには感情も憎しみも、極力排除される。憎しみからではなく、あくまでも平和という免疫を脅かすウィルスを排除するための、免疫ウィルスの戦いのような。

 世界のほとんどの国を巻き込んで、互いに戦争をし合って起こる世界戦争は、現状の資本主義のシステムが現行のまま保って行けるのなら、たぶん起こらないだろうと言うことに気がついてしまった。それは錯覚なのかもしれないけれど……。

 多くのものを見ることができるけれど、何もかもを予測することはできない。情報から眼を逸らせば、次の瞬間に世界の状況が激変しているかもしれない。兵士の子どもを持つ親や、兵士の親を持つ子ども、そして、戦争とは何の関係も無い普通の人々が巻き添えになって殺されて行く。境界線の向こう側にいるというだけで殺される人々を、境界線のこちら側にいる者たちはテレビの向こうから見ていることしかできない。どうしてこんな事が起こっているのか、「戦争反対!」とも言うことができない。それは戦争ではなく、圧倒的な力がもう片方の非力な力をねじ伏せている途中で起こる、一時的な悲劇にすぎない。一方的な虐殺めいた空爆や空襲のそれは、分刻みの(もしかしたら秒刻みの)時間まで決められて終わることが約束されている。境界線のこちら側には、できるだけ影響の無いようにするやり方で。しかし、その状況がいつまで続くのかはわからない。

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 そういえば、14歳の自分がどんなだったか、忘れてしまった。いや、本当のところは知らないのかも。もし今の私が、20年前の14歳の時の自分に出会ったら、「あっ、こんなだったのか!」って驚くかもしれない。たぶん、まったく共感するということはお互い、できないと思う。自分では内面の自分がちっとも変わっていないように思えているのに、自分では気がつかないうちに何らかの変化はしてきているんだろうなと思う。

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恐竜

 プテラノドンをウィキペディアで調べてみたら、翼を開いた長さが、7-8メートルあるものや、9メートルもあるものが、いたらしいです。なんとなく、2、3メートルくらいのを想像していたので、そんなでっかいのが、空、飛んでたのか!とびっくりしました。

 グライダーみたいに滑空して、100キロメートル先の海上まで飛んで行けたらしいです。北海道にも、骨の欠片が見つかっているそう。

 栗本薫さんの小説「魔境遊撃隊」にも、プテラノドンが出てきていました。

 そんな巨大なプテラノドンが頭上を飛んだらもう、ぽかんとして、口開けて見てるしかないだろうなあ。

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 映画「ジュラシック・パーク」では、博士が吠え声で、草食の恐竜を呼び寄せるところが面白かった。南国の景色の中で、博士が恐竜の声を真似して呼びかけると、あちらこちらから長い首がにゅっと持ち上がって、博士の声に応答していました。

 ヤギの片足が、ドン!と車の屋根の上に落ちる場面とか、俊敏で残虐な小型恐竜(ヴェロキラプトル)に、厨房で襲われる場面とか、はじめて映画館で見た時は、先が分からなくてどきどきしっぱなしで、映画見終わって外に出たら、足と頭がふらふらしてて、しばらくは、歩きにくいくらいでした。

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 そのあとに、大阪で恐竜展か何かやってて、チケットが懸賞で当たって(一人分)、家族で見に行ったような覚えがあります。もう、10年以上前かな……。

 ジュラ紀、白亜紀当時の気温と、匂いを再現していたコーナーがあって(たぶん)、生暖かく、不思議な、スパイシーな匂いがしていたような気がします(たぶん)。

 今、私が使っている、「マギーティスランド」の精油の「サイプレス」の匂いにちょっと似てたかもしれません。

 「サイプレス」はヒノキ科らしいので、シダの匂いとは違うかもしれませんが。

 精油の「サイプレス」は水っぽい匂いがして、最初使った時は「あれ?へんな匂いがする」と思ったくらいでしたが。苔っぽい匂いだったかも。でも、慣れてくると清涼感のある匂いで、空気がさあっと浄化されたような気がしてくるぐらい、けっこう好きな香りです。「イランイラン」も好きですが。

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いろいろ その2

 家の前の溝に、黒と白の柄をしたきれいな水鳥が一羽、棲んでいるんですが。けっこう一年中。家の前の道を歩くたびに、水鳥がぱたぱたぱたと小さく飛んで逃げて行きます。

 この前、外に出ようとして道を見たら、その水鳥がちょこちょこと歩いてました。

 まるで、「となりのトトロ」に出てくる、中くらいのトトロみたいに、テケテケテケテケ、と小さな足を、目に見えないほど素早く動かして道路をくねくねと歩いて、羽を広げてパタタッとわずかに、3センチほど飛び上がり、またテケテケテケテケと歩いて、パタタッと飛び上がってた。

 お笑いのキンちゃん(だったっけ?)の、「どうしてそー、なるの!」(空中に飛び上がって足をばたばた)みたいな感じで。「どうしてそー」(てけてけてけ、と歩く)「なるの!」(パタタッと飛び上がる)。

 見てたら、それを何度も何度もひとりで繰り返してました。あれはひとりで遊んでたんだろうか。それとも、身体が、かゆかったのかな?

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プテラノドン

 去年の秋頃、辺りがだいぶん薄暗くなった夕方に、道路で横断歩道が青になるのを待っていたら、大きな白い鳥(シギかサギ)が、ばさばさと、頭上を低空飛行して行くのが見えました。

 ぽつぽつと明かりがつきはじめた道で、下から淡いライトに照らされるようにして、白く、大きく、そして体が重そうな、つばさが大きな鳥が白いお腹を見せながら、こちらにばさばさと飛んできて、ななめに通り過ぎて行くのを見ると、まるで、恐竜のプテラノドンがこちらにゆっくりと飛翔してきたみたいに思えました。

 映画「ジュラシック・パーク」で、恐竜が我が物顔で、街をかっぽしていたみたいに。

 そういえば、スティーヴン・スピルバーグ監督の映画「ジュラシック・パーク」を見たときは衝撃でした。映画館で3回くらい見たかも。そして、原作のマイケル・クライトンの小説を見たときも衝撃だった。「本の中で本当に恐竜を作ってる……」と思って、「これでも、『エンターテインメント(娯楽)小説』なのか??」と思いました。なんか、今までに思っていた「エンターテインメント小説」のレベルが、限りなく引き上げられた気がしました。

 本当に恐竜が生きていて、黄色い太陽の光が差し込む亜熱帯の原初の巨大な植物の間で、のしのしと歩いていたり、赤く光る夕方の密林の上を、黒い影のようにして飛んでいたりする風景を、一度でいいから見てみたいなあ。恐竜に食べられないように気をつけないといけないけど。

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コミック

 京都国際マンガミュージアムにもう一回行ってきました。

 ジャン・ジロー/メビウスさんの展覧会も、もう一回見てきました。やっぱりいいなー。展示してあった本を見ていたら、10年前に、一度だけ、ちらっと見た絵を見つけました。「あ、これだ!」と思いました。

 某専門学校に入学した時に、一番最初のデッサンの課題で絵を一枚描くことになっていて、何描こうかな?と思い、テレビゲームの「パンツァードラグーン」のイラストを模写して提出したら、デッサンの先生が授業中に、一冊の本を見せてくれて、それがメビウスさんの本でした。

 メビウスさんが、「パンツァードラグーン」のイメージ・イラストを描いたと聞いて、「ぜったいにその人のことは覚えておこう!」とその時に思ってました。

 そういえばそのとき、「アニメ監督の宮崎駿さんの『風の谷のナウシカ』にも影響を与えた人だ」と聞いて、へえーとも思っていました。

 絵は、2ページに渡る見開きになっていて、全体的に赤っぽい絵で、男の人がドラゴンに乗って、人々が戦い合っている戦場の上を飛んでいる、とても臨場感のある絵でした。フランスの絵って、垂直の感性が優れているのかな。見ているこっちも、ちょっと、地面からわずかに浮いているような気分になります。限りなく透明な海に、まるで空中に浮いているように見える舟の写真を見た時のように。

 ずっとそれは一枚のイラストだと思っていましたが、コミックの一場面だったみたいです。10年前に見た時と、まったく同じ感じだった。

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 そして、今度は、浦沢直樹さんのコミック「モンスター」も全巻読めました。閉館時間ぎりぎりになって、ちょっとあせりつつも。もう一巻あったら、間に合わなかった。

 話は、最後までわからなくて、そして、最後になってもやっぱりわからなかった。ヨハンは、他人から、吸い取り紙みたいに悪を吸い取ってしまう、神のように純真で無垢な子供にも思えるし、悪魔のように冷酷な快楽殺人鬼にも思える。

 コミックを読み終わって、ヨハンって何だったんだろう、と思えてしまう。何者?というか、どういう存在?というか。ほんとに、『何』なんだ?みたいな。人ではない、みたいな。……だから、モンスターなのか。(今気がついた)

 「モンスター」の中に出てくる人々が、すごく素朴で、いい人で、一生懸命生きてて、アルコール中毒だったりとか、仕事中毒の刑事さんとか、あるいはちょっとは悪いこともするけど、本当にどこかにいるような、共感できる人々なので、そんな中の数人の人たちが、犠牲者になってしまったりすると、「なぜこの人たちが犠牲にならなくてはいけなかったのだろう?」と、頭が説明と理由を求めて、混乱する。

 外科医の「天馬」は、ヨハンの狂気に引きずられつつも、けっこう自律的に動く人なので、先の展開が読めなかった。

 「強き善人」のテンマが暴走して、作品のテーマの(たぶん)「善と悪」がちょっとぼやけてしまったというところもあるのかな。サスペンスとしては、面白く読めた。

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イラストレーター

 昨日は、フランス人のイラストレーターの「メビウス」さんの講演会が京都の精華大学であるというので、2時間かけて行ったけど、整理券がとれなかった。がくり。もっと早く行けばよかった。

 メビウスさんは、わたしの大好きなテレビゲーム「パンツァー・ドラグーン」のイメージイラストや、リュック・ベッソン監督の映画「フィフス・エレメント」のデザインを描かれた人だそう。「フィフス・エレメント」の、あの街のイメージや雰囲気も好きだな~。

 大学内では、会場が分からず、迷ってうろうろしてました。不審者でごめんなさい。でも、以前に通ってた某専門学校とちょっと雰囲気が似てるところもあって、懐かしかった。スクールバスの中でふつうにアニメの話とか、声優さんとかの話しができるっていいよね。ほんとに。声優さんのこと、それほどには詳しくないんだけど。最近のアニメは、ほとんど見てないけど……。

 それで、話は戻りますが。

 整理券取るために並んでたら、フランス語を話す外人さんぽい人たちがこっちに歩いてきて、(へえ。フランスの人も聞きに来るんだ)と思って、にこにこしてたら、ひとりの人が隣に並んでしまった。(順番抜かしはまずいんじゃないかな……)と思ってたら、どうやらその人、メビウスさんご本人だったらしい。おなじく列に並んでいた、可愛いピンクの唐傘を持った可愛い女の子と記念写真を撮ってらした。

 (まじ?すげー、すげー!!)って思ってたら、直後に「整理券がなくなりました~」って言われた。感激とショックの落胆が同時に来て、帰りのスクールバスの中では、茫然自失状態になってしまった。

 帰りは、たまたま、京都駅でやってた高橋留美子さんの展覧会を見てきました。原画とか、カラーとか、いろんな人が描かれたラムちゃんとかの絵もあって面白かった。カラーでは、着物の細かい柄が、いちいち手描きされていて、すごかった。

 あの、妙にうにょうにょした脇役のキャラクターは、わたしの絵の原点に入ってるかも。ムーミンみたいな。「らんま1/2」の絵も懐かしかった。

 でも、メビウスさんの講演を期待してた分、なんか、人生ってつまんないな~って、急にたそがれてました。たぶん、そこで抹茶ケーキと紅茶飲んでたら、とたんに「人生って幸せ~」ってなったと思うけど。

 くやしかったから、今日は京都の「まんがミュージアム」に行って、メビウスさんの豪華なイラストの数々を見てきた。かなり満足。1時間半で、浦沢直樹さんのコミック「モンスター」を7巻まで読んだ。すっごい満足。今度は早めに行って、全巻読もう。これも、ドイツが舞台の話だったんだなあ。

 手塚治虫さんの漫画もすべて読破……は無理だろうけど、できるだけ読んでみたい。

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エイプリル・フール

 昨日、ある話をしていたら、お母さんに、「それって、エイプリル・フールの嘘だったんじゃないの?」って言われた。

 お。めずらしく鋭いことを言うなと思ったら、「だって、わたしもおとうさんにだまされたもん」って。ん?ん?何の話だ?

 でも、興味深かったので聞いてみた。「今年?」「うん」(とうなずく)。「なんて言われたん?」って聞いたら、「イチロー選手が、他の球団に移籍したって」。

 笑った。なかなか上手い嘘だ。おかあさんは、むちゃくちゃ信じちゃったんだろうなあ。

 それをそばで聞いてた妹が、「仲のよろしいことで……」と苦笑してたけど。

 作り話を信じきって、びっくりしてるおかーさんを騙せて、喜色満面のおとーさんの顔が目に浮かぶようで、ちょっと面白かった。

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WBC

 話題がちょっと遅いですが。

 「ワールド・ベースボール・クラシック」の決勝戦、韓国対日本戦は、8回の終わりくらいから見てました。

 家に帰ったら、おかあさんがテレビつけて見てた。当然のように最初からずっと見てたらしい。日本でやっていたWBCゲームも、始まりから、都合がつかなくても執念で見てました。ま、負けた……。

 でも、その割には、おかあさんが「ちょっとトイレ」って立ったら、イチローさんが、かーんと打ったりして、なんか妙にタイミングが悪い。「何回もプレーバックするから、それを見たらいい!」って言い張ってましたが。

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 3対1から、韓国に1点ずつ2回入れられて、9回の裏で3対3になって延長戦になったときは、「終わりになってこんなことになるなんて」「もう見たくない~」とおかあさんが嘆いていたのに、イチローさんが打って2点入って5対3になった後は、「決勝戦だから、これくらい(延長戦)じゃないと!」って、急に余裕になってた。おもしろかった。

 イチローさんがヒットを打ってもなおも厳しい表情を変えずに、一塁で肘のバンド?を外しているところは、「クールや」「さすが」「クールやな~」と言い合ってました。

 韓国の投手とイチローさんの10回表の対決は、本当に、剣豪の真剣勝負を見てしまったような感じだった。

 緊張して張りつめた顔の韓国の投手と、涼しげな顔をしてバットを上げて、いつもどおりに目線を合わすイチローさんの顔の対比が、生々しい。お互いに表情を隠しつつ、相手の次の手を読もうとする。

 つりあった天秤のように拮抗する試合の、ターニング・ポイントはわずか一瞬で過ぎ去る。その魔が差したような一瞬で、勝敗が定まる。

 敬遠という手もあったのに、思いがけず真っ向勝負を挑んでしまった韓国投手の、その心意気も凄かった。

 これから野球のシーズンで、メジャーリーグ・ベースボールが始まるって言うのが信じられないくらい、濃い試合だったなー。

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ドイツの本

 この前、法事でおかあさんの田舎に帰ったとき、おじさんから、ベルンハルト・シュリンクの「朗読者」という本を教えてもらいました。今度、ケイト・ウィンスレット主演で映画化されるそうです。

 その本を送ってあげると言われたけど、図書館で借りて読んでしまった。ついでに、同じ作者の「帰郷者」と「ゼルプの裁き」「ゼルプの欺瞞」「ゼルプの殺人」「ゴルディオスの結び目」も読んだ。

 3部作のゼルプ・シリーズの物語の主人公の私立探偵ゲーアハルト・ゼルプは、愛猫ターボと暮らす、元ナチの検事だった人という設定。

 こんなことを言うと、ちょっとおこがましいですが。ナチスに所属していた人=悪に手を染めた人、そして悪魔のような人々だと簡単に割り切って考えていたけど、フィクションだけどこういう人がいて、ごく普通に生活して、ドイツのいろんな場所の、いろんな美味しそうで健康的で家庭的な料理を、ドイツの田舎の雄大な景色を見ながらのんびりと食べている様子を読むと、もちろんナチスはいけないことだけど、かつて間違ったことをした組織に所属してしまった、平和な時代では優秀だっただろう普通の人みたいな感じで、なんだか、そう簡単には割り切れなくなってきた。

 ついでだから、ハンス・ペーター・リヒターの児童書の、「あのころはフリードリヒがいた」と「ぼくたちもそこにいた」と「若い兵士のとき」も読んだ。これも3部作だったなんて、知らなかったな。

 「ぼくたちもそこにいた」は、ハインツ、ギュンター、僕、の男の子三人が中心となった物語。

 父親が労働党(だったかな?)で、ナチスに反対していたギュンターは、優等生のハインツと友達になりたいと思い、「ドイツ少年団」に入ったわけを、他のみんなには馴染めなかったけど、ハインツだけは自分の考えを持っていて、信頼できたからだ、と言い、でも、今の君は何なんだ?とヒットラーユーゲントに入ったハインツに尋ね、ハインツも「わからない。でも、じゃあ、ぼく、どうすればいい?」と途方に暮れたようにギュンターに聞き返す。「僕」はそのかたわらで、黙ってふたりの会話を聞いている。

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 考えられないような事が起こって、大波に翻弄され、生き延びるために、がむしゃらに水面に向かって泳ぐ。生き残って陸に上がっても、足にからまったロープのように罪がどこまでもついてくる。

 けっきょく、自分をどこまでも、鞭のように責めさいなむのは自分の良心であり、自分を本当の意味で裁けるのは――あるいは裁いてくれるのは、自分自身だと思う。その裁く基準が正しいか正しくないかに関わらず。

 自分の良心――もしくは、傍観者に近い、かなり客観的な立場にいる、そして肉体を持たないもうひとりの自分――には、世間一般的な法律は当てはまらない。自分の良心は、それが法律だから、戦争だったから、仕方がなかったから、それしか方法がなかったから、といくら言っても、簡単には納得したり、開放したりはしてくれない。

 現実離れした独善さを持つ、どこまでも冷酷な裁判官が、自分の中に、ごく、たまに出現してくると、けっこう、つらい部分もある……よね?

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«穴ぼこ。